Essay~これまでのこと、これからのこと~

Vol.1 ヘルマンハープの誕生

ドイツ・バイエルン州ギュルヒスハイムの風景

ドイツ・バイエルン州ギュルヒスハイムの風景

「ヘルマン・フェー氏は、1935年、ドイツ、バイエルン州のギュルヒスハイムに、農場主の跡取り息子として生まれました。母は教会でオルガニストを務め、父も音楽に親しむ裕福な環境で成長します。

ヘルマンハープの開発者ヘルマン・フェー氏と音楽との出会いは、第2次世界大戦頃にさかのぼります。ヘルマン氏が住む村には、当時音楽家が多く疎開して来ました。村の人たちは疎開して来た音楽家を助け、野菜やソーセージなどの食料を分け与えました。そのお礼にと、音楽家は村人に様々な楽器の演奏を教えるようになりました。ヘルマン少年もそのころにバイオリンやチェロを習い、音楽をこよなく愛する少年になりました。

ヘルマン氏は、地主の跡取り息子ですから、農場の経営者としての人生を歩みましたが、1969年に、4番目の子ども、アンドレアスさんがダウン症という重い障がいを背負ってこの世に誕生します。子供の頃のアンドレアスさんの日常の行動は、家族が落ち着いて生活できないほどに不安定でした。アンドレアスさんもまた、音楽をこよなく愛する人でしたので、ヘルマン氏は常々、自分でメロディーを演奏することのできる楽器を与えてあげたいと考えるようになりました。しかし、ドイツでそのような楽器を探しても、アンドレアスさんの能力を伸ばしていける楽器に出会うことはできませんでした。

ヘルマン氏とアンドレアスさん

ヘルマン氏とアンドレアスさん

あるとき、ヘルマン氏は、子供のころに見た古い楽器(アコード・チター)に出会います。そこに音符の玉を記したシートを差し込んで、アンドレアスさんが弾けるように、楽譜にさまざまな工夫をほどこしました。試行錯誤を重ねた末、楽譜上の音符を上から下へと弾いていくと、五線譜が読めなくても演奏することのできる、画期的な演奏方法を開発したのです。

この楽譜の音の長さは、音符の形や色、大きさによって識別できます。また、メロディーはたどりやすいように線で結ばれ、フレーズは、まとまりを視覚的にとらえることができるように、ラインに切れ目がつけられました。アンドレアスさんが左手をポーンとゆっくり上げて弦をはじけるようになると、ところどころに伴奏の音が書き加えられました。

アコードツィターで演奏を試みるアンドレアスさん

アコードツィターで演奏を試みるアンドレアスさん

楽譜が完成してから、お二人はアコード・チターにこの楽譜を差し込んで演奏するようになりました。演奏を聞いた人は、知的障がい者の若者がメロディーをきれいな音色で奏でている姿にたいへん驚き、評判となりました。しかしヘルマン氏は、この楽譜を使った演奏システムと、アンドレスさんの身体の特徴に合った新たな楽器が必要であることを感じ始めます。一大決心をして、専門家のアドバイスも得ながら、アンドレアスさんのための楽器製作に自ら着手することになりました。

アコード・チターは、机の上に平置きにして演奏する楽器です。ダウン症のアンドレアスさんは視力が弱いので、演奏するときに机の上に顔をおおいかぶせた姿になりました。そこで、新たに開発される楽器は、立ちあがって竪琴になりました。また、隣り合う弦と弦の間隔は広げられて、アンドレアスさんの丸みを帯びた指がスムーズに入る間隔になりました。弦と弦の間隔が広がった分、楽譜に記す音符も大きく見やすいものになりました。『アンドレアスのための楽器』と名付けられた1台の弦楽器が、1987年に完成しました。

アンドレアスさんがヘルマンハープで美しい音楽を演奏する姿を見て、同じ施設に通う友人の親御さんが、「自分の子供にもヘルマンハープを分けてほしい」と言って、ヘルマン氏のもとを訪れることになります。そうして、アンドレアスさんは、障がいのある友人たちとヘルマンハープの演奏をするようになりました。時間が経つうちに、今度は、健常者の人たちもヘルマンハープの美しい音色と弾きやすさに魅せられ、「楽器を分けてほしい」と、ヘルマン氏のもとを訪れるようになります。当初ヘルマンハープは、このように、口コミで広がっていきました。

ヘルマンハープの試作品

ヘルマンハープの試作品

ヘルマン・フェー氏は、幅広い豊かな音楽性と発明の才を持ち合わせた、実直で、心の温かいお人柄です。アンドレアスさんが喜びにあふれてヘルマンハープの演奏をする姿を見て、「この喜びは自分たちの手の中に留めるべきではなく、他の人々にも分け与えなければならないと」強く感じたそうです。筆者はヘルマン・フェー氏から、「古来、人間は、文明の発達とともに、能力のあるものだけが演奏を示せるものへと楽器を進化させてきた。その時間の軸をさかのぼり、誰でも弾くことのできた楽器へと立ち返る」という考えが、ヘルマンハープ開発のコンセプトだったとお聞きしたことがあります。それは氏が、ダウン症という病気を背負った4番目のお子さん、アンドレアスさんを得ることで、現実の痛みとしてたどり着かれた境地であったと思います。ヘルマンハープは、ヘルマン氏の手によって、これまでの進化とは異なる方向で、いわば「無理をせずに弾ける姿へと立ち返った楽器」であると言えます。

一方で、ヘルマンハープの見た目の美しさにも、ヘルマン氏の透徹した思いが映し出されています。子供の頃、ヘルマン氏の父親がたいへん美しいバイオリンを持っていましたが、ヘルマン少年はその美しさに衝撃的な印象を持ちます。この楽器の美しさは、その後長くヘルマン氏の心に留まり、アンドレアスさんのために楽器を製作する決心をしたときに、「あのバイオリンの美しさに劣るものをアンドレアスに持たせるわけにはいかない」と自分に誓い、あの美しい形状のヘルマンハープを作り出したのです。「障がい者であるから上質でなくてもよい」という考えは間違いであることを、私たちに教えてくれているのです。

ヘルマンハープは、障がいを持つ子を思う親の心が生みだした楽器です。しかし、周囲を見渡すと多くの健常者が真剣に取り組んでいる楽器でもあるという現実は、障がいのあるヘルマンハープ奏者に大きな自信を与えています。

アンサンブルを楽しむアンドレアスさん親子

アンサンブルを楽しむアンドレアスさん親子

功労勲章功労メダルを受賞したヘルマン氏

功労勲章功労メダルを受賞したヘルマン氏

ヘルマン・フェー氏は、「障がい者、高齢者を含む、多くの人に器楽演奏への扉を開いた」という功績により、1995年にドイツ連邦共和国より功労勲章功労メダルを受賞しました。また、ヘルマンハープの開発と普及に対して、2011年にドイツ銀行主催の「発想の国 ドイツ」という栄誉ある賞を文化部門で受賞しています。

ヘルマン・フェー氏はダウン症の息子とともに、1990年、ダウン症者とその保護者のアンサンブル(アンサンブル・アルペジオ)を結成。2004年にはモーツァルト音楽祭でバリアフリーをテーマに成功を収め、また近年はヨーロッパの歴史的大富豪であるフッガー家からの要請で、その居城でのコンサートに出演し、成功を収めています。日本へは、振興会主催の演奏会に二度来日。ヘルマンハープの原点を伝えるアルペジオの演奏は来場した数千名の観客に大きな感動を与えました。

今日、障がい者と健常者がともに生きる共生社会、老後の人生に心の豊かさが模索される時代を迎えています。ヘルマンハープは、そのような時代に希望をもたらす楽器であることを確信し、筆者は日本での普及をスタートしたのです。そして、その誕生の経緯こそ、ヘルマンハープという楽器を知り、楽器と対話するための道しるべなのです。