- ヘルマンハープの生まれ国から -
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![]() 東ドイツの一家を受け入れて世話をする筆者の知人と、身を寄せる東ドイツの男の子と女の子
![]() 庭で遊ぶトライスさんの子どもと筆者の子ども
![]() 壁が崩壊してから東ドイツの町を訪れた。石畳も茶色の砂で埋まっていた。
![]() 山の上の国境
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ドイツが統一されたとき 2
ドイツ統一という大変革で、いったい個人にはどのような変化が起こるのか。当時東西ドイツの国境沿いの町に暮らした筆者には、東西ドイツ統一によってもたらされた国の大変化よりも、東ドイツの一人の人間に起こった大変化の方が、ずっとショッキングな出来事だった。 筆者が暮らしていたオステローデという町のカラーも、1989年の東ドイツの国民の大逃亡劇後一新した。西ドイツの国境警備の基地としての使命はあっさりと終わりを告げたのだ。東ドイツからの移住希望者がどっと押し寄せ、軍のテントの中には、亡命者が寝泊まりするためのベットがその日のうちに組み立てられた。彼らは着の身着のまま逃れてきたので、衣類は町のボランティアが手分けして集めて支給した。 しかし、テントでの生活は小さな子供を連れて逃げてきた家族には自分たちにとっても、他の人に対しても不都合なことが多い。それで、筆者の親しくしていた西ドイツ人の一家は、ある子供連れの一家を避難所から自宅に呼び寄せ、一家の就職、生活設営、食事など、半年間もお世話をしていた。その東ドイツからやってきた家族は親戚でもなんでもない。赤の他人である。 しかし、あの時、赤の他人の東ドイツ亡命家族を、多くの西ドイツ人がすぐに申し出て部屋を無償で提供したり、食事に招いたりしていたのである。今の東日本大震災を見ても、日本なら、相手が赤の他人とくれば、避難所にボランティに行ったり、役立ちそうなものを持って行ったりがほとんどである。この違いは何なのか?ドイツの家が日本より大きいからか? そういうことでもないように思われた。日本人の他者への手の差し伸べ方は個人の感情(いわゆる“情”)から行われるように思われるが、ドイツ人の手の差し伸べ方はキリスト教的な慈愛の精神から行われているように感じる。彼らが人を助ける判断をするとき、「どうしようか」と自分が迷っている風ではない。すでにシナリオが描かれているかのように、即断する。話はそれるが、ベビーカーをバスに載せたり、降ろしたりするのに「手伝ってくれ」とわざわざ頼んだ覚えはドイツでは全くない。一番近くにいる人が当然手伝ってくれる。階段がスロープであるよりも、その社会に生きる人が「隣にいる人が困っていることを、私が困っていること」として感じられることの方が、実はその社会がバリアフリーであるためのもっとも大切な条件ではないだろうかと思った。 話は、知人がお世話をしていたトライスさん一家の奥さんの話に戻る。フラウ・トライス(トライス夫人)の年齢は筆者と同じ30歳。彼女も幼子を二人連れていた。それで、ときどき自宅に招いて一緒に子供を遊ばせたりするようになった。彼女は顔立ちの整った女性だったが、30歳という年齢には見えない老け込みようだった。無表情で、精気がない。何か彼女に聞いても、ポツリとしか返事が返って来ないので、会話は続かなかった。1つ聞くと10答えを返してくる西ドイツ人とはまるで違っていた。 街中を歩いても、同じゲルマン民族であるにもかかわらず、西ドイツの人と東ドイツから来た人の見分けはすぐについた。化粧や服装や髪形といった違いは当然あるが、顔の表情だけで見分けがついた。東ドイツの人は、喜怒哀楽の感情をすべて削ぎとられたかのような無機質的な表情だった。彼らと行きかうたびに「東ドイツの首脳部たちは、どのようにして魂の抜き取られたかのような顔をした人間をつくったのだろう」とぞっとするような衝撃をおぼえた。 フラウ・トライスの夫君は3か月ほど経ったころに、塗装屋さんに職を得て、それにともなう引っ越しや何やでしばらく会わなかった。 それから数か月して、「家がきれいになったから遊びに来ない?」と、彼女から明るい声で電話がかかってきた。 お祝いに鉢植えを選んで遊びに行くと、変わっているのは家だけではなかった。彼女(フラウ・トライス)の顔まで変わっているではないか!今どきの化粧を施し、笑顔を見せる若々しい女性に変身していた。その目には力があり、うわべだけではない内面の変化を物語っている。 「エーッ!あなたとってもステキじゃないの!どうしてこんなに変わったの?何で?何で?」私の質問に答えて彼女が言った。 「私の中のすべてがようやく変わったのよ。洋服や化粧だけの話じゃないの。自分から他の人に声をかけられる人間にもなったわ。西ドイツに来て一番ショックだったのはね、西ドイツにある最新の「物」ではなかった。西ドイツの人の堂々とした積極的な態度だった。私たち東から来た人間は、お店に行ってもどこに行っても、彼らの前に立つと、自分が自立心のない子供のようだといつも感じたわ。だって私たちは、東ドイツでは自立心が育たないように教育をされてきたんですもの」。 それは、1987年に私が日本から西ドイツに来て受けた、自分自身のショックに他ならなかった。私自身が日本でどのような人間につくられてきたのかを、一度よく考えてみなければなるまい。 しかし、教育以上にシビアな現実も東ドイツにはあった。人々がひたすら押し黙り、体制に殉じなければならなかったのは、「シュタージ」という国家保安省の存在だ。信じられるだろうか。東ドイツの人口千六百五十万人に対してブラックリストに載っていたのは約四百万人。国内外の人間も含めてシュタージがリストアップした危険人物のファイルは、立てて並べた状態で百七十八キロに及んだ。人々の電話は盗聴され、手紙は開封される。親友だと思っている人も、実はシュタージの協力者だったりする。誰かに好きなことをぺらぺらとしゃべることなど考えられない世の中にフラウ・トライスも生きていたわけだ。 ここで突然、歌の話になるが、《静かな湖畔》という曲を皆様ご存じだと思う。 静かな湖畔の 森のかげから これが筆者が子供のときに日本の学校で習った歌詞だ。 この曲はもとはスイス民謡で、《塀の上の南京虫》という曲名でドイツ人は歌っている。日本語に直して歌うとこんな感じである。 塀の上に南京虫 隠れているよ ところが、ドイツ語で全く同じスペルでつづられているこの歌が、東ドイツの人々の耳にはこのように聞こえたそうだ。 よって、東ドイツでは禁止曲になったそうだ。歌ひとつにしても、たかが南京虫の話だと言って普通に笑えない東ドイツに生きた人々の悲しさが伝わってくる。 これが、フラウ・トライスや東ドイツ出身の女性宰相、メルケル首相の生きた世界だったのである。
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